歴史館の古文書WEB分館へ戻る
平田甲太郎家文書<御高札書上帳 年不記 文書№49
原本は、半紙10枚を二つ折りにして綴じた冊子。1枚目は表紙、2枚目から高札の写しが書かれ、末尾に後書きとしての提出文がある。
書き写された高札は、次の4本。
① 正徳元(1711)年5月 親子兄弟夫婦、諸親類に親しみ・・・
② 天和2(1682)年5月 切支丹宗門禁制・・・
③ 明和7(1770)年4月 何事によらずよろしからざる事に・・・
④ 正徳元(1711)5月 火をつける者知らば・・・
表紙にも後書きにも「御新領」とあり、末尾の提出文2行によって、この書き上げ帳は、新しく代わった領主から命じられて提出したものであることが分かる。

ただ、提出した年は書かれてない。それで、以下に推測してみる。
小見村を含む現関川村の領主が代わったのは、次の4回になる。(白川藩領であった地区は除く)
〈1〉 宝永6(1709)年、村上藩領から幕府領に
〈2〉 正徳2(1712)年、幕府領から舘林藩領に
〈3〉 享保14(1729)年、舘林藩領から幕府領に(庄内藩預かり地)
    以下、預け先は変わるが、領主は幕府のまま
〈4〉 文久元(1861)年、幕府領から会津藩領

ただし、〈1〉と〈3〉は除かれる。その理由は、高札の発行人「奉行」とは幕府の勘定奉行のことであり、幕府が自分の出した高札をわざわざ書き写させて提出させる必要はないから。
とすれば、〈2〉と〈4〉のどちらか。
書き写された高札の年代からすれば、〈2〉が最も近い。
ところが、末尾の小見村庄屋柳吉が平田家系図に登場するのは、ずっと後の幕末。それに、「御新領」という言い方がよく出てくるのは、幕末に会津藩領になった時。また、〈2〉の頃の小見組は20数か村の規模だった。
これらのことからすれば、この文書の時期は〈4〉ということになる。

だとしても、なぜ、100年以上も前の高札をわざわざ書き出させたのか。それに、江戸時代を通して高札はもっとあったはずなのだが、なぜこの4本なのか。

この4本は、江戸時代の高札として全国的によく知られた内容で、明治維新後の新政府にも引き継がれたものもある。ということは、幕府の民政基本法のようなものなのかもしれない。
とすれば、会津藩の指示にはそういう趣旨が入っていて、それを受けて、この4本を提出したということなのかもしれない。

もっとも、幕末の柳吉と同名の庄屋が〈2〉の時代に存在したということも考えられなくもない。いろいろ推測できて、古文書は探偵もの。
釈文
読下し
 
 ページのTOPへ