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平田甲太郎家文書<博奕禁止請書 寛政4(1792)年 文書№509
<解説>
第一項目の書きぶりからすると、この年秋ごろから各地で博奕が行われていて、それを禁止する旨の三ヶ条を庄屋の甲太郎が代官所から申し付けられたようです。それを伝達された村人が、禁止三ヶ条をしっかり守りますと誓約して庄屋宛に出した請書(受諾書)と見られます。
村人が必要に応じて自主的に制定した決まりは、「村定(むらさだめ)の事」と明記しています。⇒こちら
また、小見・上野山・滝原三ヶ村共同で自主制定した決まりも「三ヶ村申し合せ」「取り交せ書付」「定書き」などとなっています。⇒こちら
それらに対して、この文書は「差し入れ申す一札」となっていて、文中にも「承知仕り候」「お請け一札」などと書かれ、「村定」「村極」「村掟」などとも言われる村の自治を象徴する自主制定法とは、意味が異なるようです。

これから見ると、江戸時代の村の法制は、村の自主制定と御上から示される下達の二種類があったことになります。
下達の法も、高札のように一方的に示される法とこの文書のように、伝達受諾のような法もあったことになります。
伝達受諾といっても、代官所からの命令だから皆守るようにというような一方的な下達にはなっていません。村人からの受諾の意思を庄屋に示した形になっています。おそらく庄屋はこれを代官所に示して、この通り村人に徹底させましたと報告するのでしょう。

ふんぞり返った代官所が上意下達するという感じはまったく出ていません。
何しろ、村の自治は鎌倉時代以来の伝統と歴史があります。戦乱混乱の戦国時代も、農村は連帯の自治で乗り切ってきたのです。だから、江戸幕府としても、村の自治は大いに尊重したのでしょう。
むしろ、村の自治の上に立って、幕政が成り立っていたと言うべきでしょう。この文書一枚から、そんな感じがにじみ出ています。
原文
釈文
読下し
原文
釈文
読下し
  
原文
釈文
 
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