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平田甲太郎家文書<瀧原・上野山・小見村 三ケ村の定(さだめ)
 滝原村・上野山村・小見村の隣接三ヶ村は、小見村に定着した平田平太郎(甲太郎)家の先祖が開発した村という関係もあるのでしょうか、何かにつけて協力し合ってきた村のようです。三ヶ村共同で取り決めた「定」(さだめ=決め事)の文書が三通残っています。
 三通とも、三ケ村の百姓衆が連判し、三ケ村の庄屋宛に提出した形になっています。三ケ村で取り交した念書(約束)ということになります。
 江戸時代は、あらゆることが「ムラの自治」で行われていました。絆は強かったのです。絆の元々の意味は、手かせ足かせ。ムラは運命共同体。絆は必然だったのでしょう。

① 盗難の取決め  天明3(1783)年 文書№536
② 博奕・野火禁止、小作の取決め  寛政2(1790)年 文書№566
③ 博奕禁止、盗難、騒動の取決め  天保5(1834)年 文書№533
 
博奕禁止、盗難、騒動の取決め 天保5(1834)年(文書№533)
 1項目目は、博奕禁止。罰金5貫文は、5,000文で、ほぼ1両。大金です。
 2項目目の前段は、盗難対策。罰則は所払い。人別帳(戸籍)から外され、追放刑。重罪です。家の者も宿を貸した者も同罪とあります。
 2項目目の後段、近隣の村で騒ぎ立て等があっても、人足を出してはならないとあります。これは何を意味しているのでしょうか。
 文化11(1814)年に、荒川下流域で農民による暴動がありました。原因は米の不作による米価高騰でした。天保の時代にも、飢饉が続いていましたから、不穏な空気が流れていたのではないでしょうか。文化11年の暴動は、各村から1人ずつ出るようにと書かれたビラに扇動されて人々が集まったといわれます。だから、万が一にも、そのような暴動に加わることのないように、この申し合わせを作ったのではないかと思われます。
釈文
読下し
意訳
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