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平田甲太郎家文書<瀧原・上野山・小見村 三ケ村の定(さだめ) 
 滝原村・上野山村・小見村の隣接三ヶ村は、小見村に定着した平田平太郎(甲太郎)家の先祖が開発した村という関係もあるのでしょうか、何かにつけて協力し合ってきた村のようです。三ヶ村共同で取り決めた「定」(さだめ=決め事)の文書が三通残っています。
 三通とも、三ケ村の百姓衆が連判し、三ケ村の庄屋宛に提出した形になっています。三ケ村で取り交した念書(約束)ということになります。
 江戸時代は、あらゆることが「ムラの自治」で行われていました。絆は強かったのです。絆の元々の意味は、手かせ足かせ。ムラは運命共同体。絆は必然だったのでしょう。
① 盗難の取決め  天明3(1783)年 文書№536
② 博奕・野火禁止、小作の取決め  寛政2(1790)年 文書№566
③ 博奕禁止、盗難、騒動の取決め  天保5(1834)年 文書№533
博奕・野火禁止、小作の取決め 寛政2(1790)年(文書№566)
 村広報2023年10月1日号掲載
 村広報2023年11月1日号掲載 
②の文書は、二項目の取り決めが書いてあります。
 
前半は、博奕と野火の禁止で、後半は、小作の取り決めです。

 
前半の内容は、村の広報紙10月号で紹介した通りです。
 
博奕と野火の禁止は、一村毎の村定め文書にもたびたび出てくる内容で、当時の代表的な困りごとだったのでしょう。
 野火禁止の内容に、柴刈りのついでに山中や川原で飲酒・賭け事をする者がいることや、子どもの火遊びなどが書いてあって、当時の村の暮らしを垣間見ることができます。
 禁止令は、ほとんどの場合、そういう行いがあるからこそ出されるものです。

 後半の内容は、村広報紙11月号で紹介しますが、小作の問題です。
 天明3(1783)年の文書①にも、「三ヶ村は田畑入り組み、互いに出作入作している」とあります。
 そんな状況ですから、2項目目に書かれた小作の問題をいい加減にしておくと、だれがどこの小作をしているのか分からなくなる心配があります。そうなると、だれが、地主の責務(納税や用排水管理等の共同作業)を果たすべきなのか、うやむやになってしまう恐れがあったのでしょう。
 年貢は個々人に課せられるのではなく、村請制で、村全体の共同責任。それを村内で調整して田畑の持主に按分していました。田畑の持主と耕作者が誰なのかは、その際の重要な問題です。それで、この取決めをもうけたのでしょう。
釈文
読下し
意訳
釈文
読下し
意訳
 
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