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平田甲太郎家文書<平内新村と大島村の鮭猟場出入②> 寛政9(1797)年 文書№507 |
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「平内新村と大島村の鮭猟場出入①(文書№510)」⇒こちら 「正徳4年の鮭漁場の覚」を寛政9年に写した文書(文書№508)⇒こちら 「正徳4年の鮭漁場の覚」(文書№506)⇒こちら |
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<解説> 1 文書の内容 漁場争いで訴訟を起こしたが、裁判に入る前に示談が成立、その際の合意文書。詳細は「意訳」にある通りだが、簡潔に記せば次のようになる。 平内新村市三郎の「雑貝川漁場」に、大島村の6人が勝手に入り込んで漁をしたので、訴訟になった。 大島村は次のように反論した。「その場所は昔から大島村の漁場だったが、川の流れが変わり40年余休漁してきた。しかし、近年、川の流れが元に戻ったので漁を再開したのだ」と。 代官所の取り調べが始まるところだったが、久保村庄屋半右衛門と下関村半十郎が仲介に入り、結果、次の4点で合意が成立した。 合意① この漁場は、小見村平太郎から譲り受けた証拠書類があるので、市三郎のものに決定する。 合意② 大島村は漁場が無くて困っているのだから、「雑貝川漁場」の南枝川岸(分流の南岸)だけは、大島村の漁を認める。そのために、大島村は市三郎に毎年7月7日に銭2貫文を払う。しかし、本流には立ち入らないこと。 合意③ 大島村は去年から「雑貝川漁場」で漁をしているので、その分として市三郎に金1歩と銭2貫文を払うこと。 合意④ これ以後、大島村が漁を行う枝川の南岸が本流になったなら、大島村はそこでの漁は行わない。そうなれば、銭2貫文も払わなくてよいこと。 2 考察と解説 文書の内容は以上の通りで単純なのだが、若干分かりにくい箇所がある。少し長くなるが、以下に考察・解説する。 (1) 訴訟側の3人、市三郎・甲太郎・蔵之助の関係 市三郎は「雑貝川漁場」の瀬主、つまり持ち主。その漁場で漁をする人たちの親方(配下の漁師を川子という)。だから、訴訟人(原告)は、市三郎であるべきだが、病気だったらしく、小見村庄屋甲太郎が代理をした。蔵之助は、甲太郎の代理を兼ねた訴訟人となっている。 ① なぜ、隣村の甲太郎が訴訟人代理なのか。この漁場はもともと甲太郎の父平太郎のものだったが市三郎に譲渡した。甲太郎は市三郎の了解の下、ここで漁を行っていた。大島村の者は、甲太郎の漁を妨害した。だから、甲太郎が訴訟人代理になった。 ② なぜ、大島村の者が甲太郎の漁を妨害したのか。文書の内容から察するに、この漁場の南側、つまり大島村側に枝川(分流)があって、甲太郎はそこで漁をしていたと思われる。そこに大島村の者が自分の漁場だと言って入ってきたから争いになった。つまり、この訴訟の当事者は甲太郎ということになる。 ③ 蔵之助は、おそらく市三郎の子ではないだろうか。病気の父に代わって訴訟人になった。和解が成って示談書を作成する時点では、甲太郎に何かの都合があり、蔵之助が甲太郎の代理も兼ねたということになる。もしかすると、甲太郎は自分の漁場であった南枝川岸を大島村に譲ることになって、本心は不満だったが、やむを得ず合意を飲んだのかもしれない。 (2) 提出された証拠書類 書類① 「雑貝川漁場」が元瀬主小見村平太郎から市三郎に譲渡されたものであることを示す文書。大切な権利文書だから、市三郎は大事に持っていたはず。甲太郎の家にも副本か写しを残しておいただろう。しかし、この文書は、平田家文書の中には見当たらない。 なお、次に示す書類②は、訴訟のこの時より83年前のものだが、そこには「雑貝川漁場」の瀬主は市三郎とある。このことからすると、平太郎からの譲渡はそれ以前ということになるだろうか。あるいはまた、83年の間に、市三郎から平太郎へ、そしてまた市三郎へと瀬主の権利が往復したことも考えられる。平内新村の市三郎家と小見村の平太郎家は、近しい間柄の家なので、それもありうることではある。 もちろん、襲名制だから、人名が同じでも同一人物というわけではない。甲太郎の父11代平太郎は、この訴訟の4年前に亡くなっている(平田家系図)が、甲太郎が12代平太郎を襲名するのは、他の文書の宛先名を見ると、この訴訟の1年後のようだ。 書類② 「雑貝川漁場」を含む荒川の鮭漁場9ヶ所の境を明記した文書 正徳4(1714)年作成の「鮭猟場之覚」と題した文書(№506)と、それを書き写した寛政9(1797)年の文書(№508)が残っている。後者は、小見村庄屋甲太郎が写したと奥書にあるので、甲太郎が正徳4年の文書を見つけ、訴訟の証拠文書として写しを提出したものと思われる。 9ヶ所の漁場というのは、荒川を細かく区切ったもので、各漁場には「雑貝川漁場」というように、川の名が付いている。 別の文書(№510)には、境の区切り方として、「漁場は字(あざ=地名)で区切り、川上・川下・南・北で見通しの境を立てている」とあるので、川の名は字名ということになる。多分、荒川に流れ落ちる小さな川を字名にして、それを境に使って区切ったのではないだろうか。 「雑貝川漁場」の境は、意訳すると次のようになる。 瀬主は、平内新村市三郎(印あり) 川上は、雑貝川と巻目川の境(上流側隣接漁場が巻目川漁場) 北は、平内新村堤沢出口の先端 南は、土沢村への道の北、境塚があるところから少し西のあたり 見通しは、ほぼ直線 川下が書いてないのは、隣り(川下)の漁場「木戸川漁場」の所に「川上は雑貝川」とあるからで、どの漁場もこのような書き方になっている。 川上・川下の境はわかるが、南北の境とは何を意味するのだろうか。他の漁場の記述を見ると、どうやら大きな荒川を上・下(つまり、縦)だけでなく南・北(つまり、横)に区切る漁場もあるようなのである。 雑貝川漁場の南北境はどちらも陸上になるようだから、南側の枝川に大島村が漁場を持つ余地はないということになる。 このことを、合意事項の2項目目として、文書では次のように書いている。 「境通り取極めこれ有り候雑貝川の分け役に相立ち難し」と。 「分け役」というのは、鮭漁は村役(村の仕事)として行われるので、雑貝川漁場を大島村と平内新村の2村の村役に分けることだろう。しかし、書類②の境の記述から、それは無理だということになった。 (3) 和解案の不思議 書類①②は、すべて大島村の主張を否定するもので、これ以外に、大島村の主張を裏付ける証拠書類は出せなかったようだ。それで、漁場を分けることは無理との結論なのであれば、大島村の全面敗訴でいいはずなのに、なぜ、南枝川岸を譲ることになったのか。 合意事項の②を詳しく読むと、次のようになる。 大島村は「鮭川漁場が無いために漁業税の未納分を弁済するのに困っている」と言うけれども、雑貝川漁場を二村で分けるのは無理だ。だから(これに依り)、市三郎に銭を払って南枝川岸だけは漁ができるようにする。 つまり、納税できなくて困っていることは認めた上で、お金で解決しようということになった。ということは、大島村が税を納めるべき漁場をもっていたことは、証拠書類はないものの、認めざるを得なかったということになる。 この訴訟の21年前、安永5(1776)年にも同じ争いがあって文書(№510)が残っている。その時も、雑貝川漁場の南縁りは大島村の漁場だといって入り込んできた。 その文書によれば、それ以前にも同様のいざこざがあって、その時には代官所からの指示で小見村庄屋嘉左衛門と久保村庄屋半右衛門が調査をした結果、これまで通り市三郎の漁場と決まったのだ、とある。 このように、20年以上も前から大島村が主張しているということは、それなりの理由があったということなのだろう。 80年前の正徳の文書の時には南枝川は無かった。が、その後、流れが変わって枝川ができ、そこは一番近くの大島村が漁場として確保した。しかし、40年くらい前にはその枝川が消え、漁はできなくなっていた。それが、20年前頃から流れが変わり始め、近年、はっきりと昔の枝川が姿を現した。とまあ、このように考えれば、大島村の言い分も理解できるし、無下に拒否しなかった理由も理解できる。 このあたりが、仲介に入った取扱人の腕の見せ所ということだろうか。 (4) 漁法について この文書には、二つの漁法が出てくる。一つは、甲太郎がやっていた「行繰り漁」、もう一つは、大島村の者がやっていた「囲い出し漁」。 行繰り漁は、現代の三面川に居繰り網漁があるので、それのことだろう。川の中に張った網を手繰って狭め、中の鮭を捕らえる。 囲い出し漁は、よく分からない。囲い網漁なら巻き網のような漁だろうが、出すとあるから、囲って置いて川から出すのであれば、地引網漁のことかもしれない。三面川の昔の鮭漁の絵には、そのような図があった。 21年前の争いの文書(№510)には、「大島村の者共が入って来て、石を拾い、杭を打って、漁場を作り始めた」とある。岸に杭を打ち、網の一方を固定し、川の中の鮭を囲んだ上で、網の一方を陸側へ引き上げれば、囲い出す形になる。川底に大石などがあれば、網に隙間ができ鮭に逃げられるから、そのため石を拾って川底をできるだけ平らにする。こんなふうに想像するのだが、どうなんだろうか。 3 補足;挿絵の川小屋について 挿絵は⇒こちら 筆者(渡辺)の子どもの頃の記憶を描いたもの。当時、祖父が仲間と鮭川漁をしていて、川原の漁師小屋を訪ねた記憶がある。鮭川小屋と言ったか、番小屋と言ったような記憶もある。長木を横に斜めに渡して藁を掛けた細長い小屋だったと思う。祖父は、漁の時期、夜もこの小屋に寝泊まりしていた。多分、密猟を警戒していたのではないだろうか。 小屋の中では、火を焚き、大きな鍋に鮭のぶつ切りや大根が煮られていた。それを見た記憶はあるが、食べたかどうかは覚えてない。 この時期になると、家の重棚の中には、ハラコを醤油漬けした甕があって、大人の目を盗んで、それをしゃもじですくってつまみ食いするのが、最大の楽しみだった。 |
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