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平田甲太郎家文書<正徳4年の鮭猟場の覚>正徳4(1714)年 文書№506
「平内新村と大島村の鮭猟場出入①(文書№510)」⇒こちら
「平内新村と大島村の鮭猟場出入②(文書№507)」⇒こちら
「正徳4年の鮭猟場の覚」を寛政9年に写した文書(文書№508)⇒こちら
正徳4年の鮭漁場を現代の地図に書いてみた図↓
<上の地図の解説>
初め、正徳4年の「鮭猟場の覚」の原文記述通りに、地図に線を引こうとした。しかし、どうにも、川の上下が逆になったり、交差したりで、にっちもさっちもゆかなくなった。
それで、改めて、各漁場の位置関係を整理してみた。その際、手掛かりにしたのは、文書№510の記述である。そこには、漁場は字(あざ=地名)で区切り、川上川下の南北見通しで境を立てているとある。
そこで、文書№506の記述を上記の原則に合わせて、書き直してみたのが下に掲載した「<意訳>①~⑨の漁場の境区切り」である。
各漁場とも、川下側の南北のポイントが書いてあって、そこから見通したラインが、川下へ下がっているか、川上へ上がっているか、それとも上がり下がりなし(つまり、真南にまっすぐ)か、が書いてあるというふうに読み取った。
川上側のポイントと見通しラインは、隣りの漁場の川下側ラインになるわけである。
このようにして、ひとまず、①~⑨の漁場の境区切りは整理できた。
さて、これを現代の地図に書き込むとなると、ポイントの地名がどこに当たるか探さなければならない。以下、①から順に、どのように設定したかを説明してみる。

① 狐堀川漁場

Ⓑの「不動沢」は『関川村山岳渓流地図』に載っている。国土地理院のWEB地図は、中心点の+印を当てた地点の住所が、頁下部の矢印を開くと、そこに出る。「不動沢」のある地点は「大字高田」と出た。よって、Ⓑの「高田村分不動沢」というのは、ここになる。Ⓑから荒川の対岸へ南下がりに線を引くと、そこがⒶ。ここの住所は「貝附」である。

② 福瀬川漁場
Ⓒの「宮前分」が難物である。荒川の近くに宮前の住所は見当たらない。地理院WEB地図では、上野新の付近までが宮前なので、その辺りに伊勢松があったとも考えられる。しかし、なぜ荒川から離れた宮前なのかを考えると、おそらく、女川も含んだ漁場だからではないだろうか。そう考えると、朴坂の背後の山の上も宮前分で、そこからの方が、荒川まで見通した女川を含むラインを引くには都合がいい。それで、そこをⒸとした。
Ⓓは地点ではなく、「午未の間が境」と、つまり、南南西の方向の見通しラインだけを示している。これは地点を決めず、女川の川口方向だけを指したものと思える。女川と荒川の合流点がその年によって多少上下に変動しても、地点を定めず方向だけ示しておけば、女川は②に含まれることになる、ということではないだろうか。

③ 木戸川漁場
Ⓔを高田の中心部として、そこから南下がりにラインを引いた。JR米坂線の北側一帯が大島と土沢の境になるが、大島の家並を外れて対岸から見通しのきくあたりをⒻとした。

④ 雑貝川漁場
Ⓗは、原文では「土沢村往還」とあるから、米沢街道(ほぼ現在のR113 )から土沢へ行く道になる。地理院地図で最も古い大正2年図では、橋場の東端から谷地林を抜けて上土沢へ道が通っている。よって、学校の北あたりをⒽにした。
そこから真北へラインを引き、平内新と高田との境近くで、背後の山から流れ出る沢の出口と思われる辺りをⒼとした。

⑤ 巻目川漁場
Ⓙの赤谷村橋を南赤谷集落内の赤谷川に架かる橋とするのが妥当なのだが、そうすると、⑤から上流の漁場が窮屈になる。現代の赤谷橋はR113の打上との境にあるが、大正2年の地図では、改修前の赤谷川は細くもっと橋場寄りに流れていた。そして、橋場の東側を流れるもう一本の川がある。橋場の地名が赤谷橋のたもとから来ているとすれば、当時の赤谷橋は橋場の東側に架かっていた橋と考えられる。そこも南赤谷の住所だから、赤谷村の橋をここに当てた。
そこから真北へラインを引くと、鉈打の南側の山間から出た沢が平内新に流れ出る辺りになるので、そこをⒾとした。

⑥ 荒山川漁場
鉈打の住所は高田分になっているので、そこから南へ流れでる沢の出口がⓀ。
Ⓛは南赤谷の神社にあてた。南赤谷の背後の山頂には大きな笠松があったから、あるいはその松なのかもしれない。

⑦ 舟付川漁場
赤谷川の上流山地の谷間が元々の内須川で、その谷が平野部へ広がる出口をⓃとした。そこに石仏大松があったのだろうか。そこから北へ、南上りになるようにラインを引くとⓂになる。小見前新田の北側山裾が小見の住所となっていて小見村の内になる。

⑧ 杉木又川漁場
ここが最も難物である。「南片川」と書いてあるから、この漁場は荒川の南半分ということだろう。そのことを前提にⓄⓅⓆを想定する。
引の沢は、現在の吹ノ沢で、その上段部の東側つまり滝原側も上野山住所となっているので、そこをⓅとした。
Ⓠは「内須川出口の大松」とあるから、⑦のⓃと同じ場所のことだろう。ⓅⓆのラインがこの漁場の川下側の境ということになる。
Ⓞは下関村分の漁場との境になっているので、ここより上流に⑨の漁場はないことになる。
難しいのはⓇの意味である。ⓅⓆの川下ラインがあるのに、わざわざ川下の舟付川漁場との境を書く意味は何だろう。考えられるのはⓅⓆラインがそのまま舟付川漁場との境ではなく、そのライン上のポイントが境になっているという意味ではないだろうか。小見村の住所は、荒川左岸つまり下関側まで広がっている。ということは、川の中あるいは川岸に「小見村分川前小窪み」があって、その東側にある栗の木がⓇということになるのではないだろうか。
難物は、見通し線のことである。南上りと書いてあるが、原文は、他の漁場と違う書き方になっている。これは、川下ラインのことではなく、川上のラインのことではないかと推測した。川下ラインは⑨の漁場の境になり、⑧の漁場に川下ラインはないから、最上流側の漁場として川上ラインを書いたのではないだろうか。Ⓣのことは、次に説明するが、ⓉⓄのラインが南上りになることは可能である。

⑨ 滝下川漁場
この漁場には、川下地点がない。それは、⑧のⓅⓆラインがそのままこの漁場の川下境になるからだろう。
また、⑧が南半分ということは、⑨が北半分ということになる。それで、上流の下関分の漁場との境ラインが必要で、ⓈとⓉの地点を明示したということになる。
Ⓢは、「滝原村道下の二本松」の文のままである。
Ⓣは「下関村分の清水尻」とある。これがどこかがまた難物であるが、下関の住所は荒川の中を含んでいる。ということは、中島を指しているのではと推測推測した。これだと、荒川を南北に分けた漁場が出来上がることになる。

以上のようにして、9漁場の区切りを現代の地図上に引いてみたのが、上の地図である。
なお、文書№510で漁場は字(あざ)で区切るとあるが、漁場の名称の○○川が、その字の地名であろう。ということは、漁場の中に○○川があるのだと思われるが、耕地改良の進んだ現代では知る由もない。もしかしたら、古い地籍帳には、この字名があるのかもしれない。
最後に、文書№507で紹介した大島村と平内新村との雑貝川漁場の争いで、甲太郎が提出したのが、この№506を写した№508の文書ということになる。下の<意訳>では省略したが、原文には各漁場の瀬主の名が書かれている。
 <意訳> ①~⑨の漁場の境区切り
原文
釈文
読下し
原文
釈文
読み下し
原文
 
 釈文
 
読下し
原文
 
 釈文
 
読下し
 
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