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平田甲太郎家文書<入会山からの伐り出し関係文書> | ||||
① 入会山から売り薪伐り出し念書 文化5(1808)年 平田家文書№736 | ||||
② 15ヶ村入会奥山薪伐り出し 天保2(1831)年 平田家文書№629 | ||||
③ 筏伐り出し稼業一札 嘉永2(1849)年 平田家文書№515 | ||||
② 15ヶ村入会奥山薪伐り 天保2(1831)年 文書№629 | ||||
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広報せきかわ2024年10月1日号掲載 | ||||
<解説> 凶作の年に、入会山の薪を伐り出し、その収益で生活困窮事態を凌ごうとした文書で、文書№515や文書№736と同様の文書である。 ただ、上記2文書は、小見村、上野山村、瀧原村の三ヶ村入会山の話だったが、この文書は15ヶ村の入会山の奥山の話。15ヶ村というのは、 末尾に列記されている、高田、桂、朴坂、若山(外2村は新保、上野新)、平内新、小見、上野山、瀧原の10村と、本文に出てくる小和田、村上藩領の中束、蛇喰、中、宮前の5村 (1) 文書内容の概要 前年の凶作対応のため、15村の入会である奥山の薪を伐り出すことで話合いをした。 ところが、小和田村が、合意を渋った。それで、高田村庄屋が小和田村に対応することを引き受けた。訴訟など面倒なことになっても、自分が引き受けると。そのための費用も自分持ち出しでやる。 小和田村以外にも、村上藩領の4ヶ村も難しいことを言うかもしれないが、それも自分が引き受けた。 難しい事態になったら、その時は改めて相談する。難しくなった場合の費用のことは、別紙の取決め證文に書いてある通り、準備金の中から受払いして、定められた年限の内で返す。そうなったら、證文は反故にしてもらう。 ざっと、こんな内容。 (2) 光兎山域の15ヶ村入会山 この文書より25年も前、文化3年の「田麦掘割訴訟事件」でも、光兎山域の15ヶ村入会山の件が問題になった。 その事件で原告の平太郎は、藤沢川の上流水源域は15ヶ村入会山の用水林だということで、水利権を主張して訴えたのだった。 そのときの中束村は、平太郎の主張に対して次のように反論した。 藤沢川上流域は、光兎山の神域でみだりに木を切ると神の怒りにふれ川が荒れるということで、15ヶ村で大事に保護してきた。しかし、入会山ということではなく、あくまでも中束の地元の山であると。 裁判の中で、結局、平太郎の主張は作り話だとされ、中束の主張は認められた。(但し、水争い訴訟の本筋ではないため、論点としては取り上げられなかった。) 今回のこの文書を見ると、光兎山の一角である奥山の山麓は15ヶ村の入会山であることは、共通の認識でいたことが分かる。 文化3年の訴訟の発端となった、その前年の大栗田不法伐採問題の文書でも、「私共入会の光兎山境内やそのほか藤沢の所々で」とあって、当時、この内容を15ヶ村一同認めている。 つまり、「私共入会の光兎山境内」というのが、今回の文書の奥山入会のことであって、「そのほか藤沢の所々で」で、平太郎は、「私共入会」を藤沢川上流域まで拡大適用したのだ。しかし、多少無理な拡大適用であったため、中束村から頑強に反対されることになってしまった。 今回の文書によって、田麦掘割訴訟での15ヶ村入会山問題は、以上のように理解することができる。 (3) 小和田村の不同意 ところで、小和田村はなぜ合意を渋ったのだろうか。 その理由を文書には、「小和田村は山岸の村立ち故、心得違いにて、山本は存じ居り候哉」とある。この文の意味が難しい。 まず、山岸は、山の急崖が川に落ち込む地形のこと。村立ちは、村の有様。実際、小和田村から見た奥山および光兎山の山域は、女川の流れを挟んで急崖になっている。 その様な村だから「心得違い」、つまり思い違いが生じた。どんな思い違いかというと、「山本は存じ居り候哉」。この意味は、山本を知っているのだろうか。山本は山の麓、或いは地元と同じで所属の意味か。 とすると、次のように解釈できる。 小和田村は、山の急崖が女川に落ち込む岸辺の(対岸の)村だから、奥山がどこの地元の山かについて、何か思い違いをしているようだ、ということだろう。 奥山の地形を見ると、小和田村のある女川側は急斜面だが、藤沢川側は緩斜面で中束村へ下っている。ということは、小和田村の思い違いというのは、奥山は中束村の地元の山だと小和田村は思っているということになるのではないだろうか。 (4) 御私領四ヶ村の不同意 交渉説得を引き受けた五右衛門にとって、小和田村の思い違いを正すことは、そう難しくないと思っているように文書のニュアンスから感じられる。 それに対して、私領四ヶ村との交渉は難航しそうだと思っているようだ。 私領とは村上藩領のことで、中束、蛇喰、中、宮前の4村。 15ヶ村は、元々村上藩領だった時代は女川組あるいは小見組としてまとまっていた。村上藩領と幕府領に別れた後も、生活基盤は一緒なので、まとまって協力してきた。しかし、領主が違うことで、何かと行き違いが生じることもあったのだろう。25年前の田麦掘割訴訟はその代表例。 それで今回も、中束村は地元の山だと思っていて立木の伐採にはなかなか同意できない。他の3ヶ村も村上藩領として中束村と一体感をもっていて、共同歩調をとるのだろう。 交渉は簡単には進まないと、五右衛門は思っているから、そのような場合に備えて別紙の取り決め証文を作成した。別紙が残っていないので、その内容は不明だが、本文の書き方から察するに、どうやら、備え金(準備金)を用意していたようだ。 それで、必要が生じたらその金の中から受払いを行う。そして、定められた年限の内で返済したら、その證文は破り捨ててもらう。 ということは、準備金は10ヶ村の拠出金で、五右衛門はその中から受払い、つまり出し入れを行い、年限までに清算して、残金を返納するというように読み取れるのだが、どうだろうか。 以上のことからすると、15ヶ村入会山というのは、中々難しい山だということになる。果たして五右衛門の説得は実を結んだものか? |
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原文 | ||||
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釈文 | ||||
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読下し | ||||
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意訳 | ||||
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