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平田甲太郎家文書<田麦堀割訴訟関係>
 「文化3年田麦堀割訴訟顛末記」⇒こちら ⑥の済口證文の真実がついに明らかになりました。
① 大栗田我儘(勝手)伐り出しの件一札 15ヶ村連判状  文化2(1805)年8月  平田家文書№529
② 新規掘割用水路出入(訴訟) 村上藩宛訴状 文化3(1806)年7月  平田家文書№543
③ 新規掘割用水路出入(訴訟) 幕府勘定奉行所宛訴状 文化3(1806)年9月   平田家文書№766
④ 新規掘割用水路出入(訴訟) 現地熟談破談の届 文化3(1806)年11月   平田家文書№747
⑤ 新規堀割用水路出入(訴訟) 再出訴の訴状と裏書 文化4(1807)年1月・4月  平田家文書№732
⑥ 新規堀割用水路出入(訴訟) 済口證文(合意文書) 文化4(1807)年4月   平田家文書№698
 ④ 文化3年(1806年)11月 現地熟談破談の届 (文書№747)
《解説》

 九月訴訟は差し戻しとなり、現地に関係者が集まり熟談となりました。
 その結果を報告したのがこの文書です。
 届け人は、熟談の仲裁を要請された取噯(扱い)人四名。
原告側から、佐々木村庄屋清次、牧目村庄屋常右衛門
被告側から、四日市村庄屋嘉左衛門、岩船町年寄与惣左衛門
 あて先は、原告側領主水原代官所の手代稲岡茂作
 被告側領主村上藩の家臣三宅佐藤次、佐藤田子七、牧大助、大嶋勝左衛門
 この文書は、提出された届書の写しです。平太郎が代官所役人から見せられて大急ぎで写したような文字です。
  (当時は、原告・被告・藩などの用語はなく、便宜上使用しています。)

《破談に至るまでの経緯》
 「神林村誌」に、扱人与惣左衛門が残した覚書が掲載されています。それによって、破談に至る経緯を詳細に知ることができます。日付を追って項目だけ列記すると次のようになります。
   十月十三日 現地熟談へ村上藩の方針が示された
   十月二十二日 村上藩から熟談の文案が示された
   十月二十四日 村上藩から破談の意志が示された
   十一月二日 現地集合
   十一月三日 現地会談開始 被告多数帰村
   十一月四日 現地見分
   十一月五日 話合い開始
   十一月十三日 破談届提出
   十一月十五日 村上藩から被告庄屋へ江戸行きの指示
 村上藩は、現地集合の前に被告側関係者に対して、あくまでも掘割の新規拡張を否定し、破談にすることを指示しています。
 現地を見れば、平太郎の訴えが真実であることは明らかになります。その前に、白を黒と言い含めて有無を言わさない態度です。
 現地見分の前日に多数の被告たちが帰村したのも、理由は年貢収納時期のためと書いてありますが、無駄な骨折りであることが分かっていたからでしょう。
 残った人たちで現地見分話合いを続けても、どうにもなりません。「泣く子と地頭には勝てない」。多分、そんな諦めの気分だったでしょう。
 与惣左衛門は、話合いを続けても「折り合うはずはなく」と書き、「十五日には江戸出立を命じる手回しのよさ」と書いていて、村上藩へ皮肉のように読めます。無駄な骨折りに引き出されて、やれやれといったところでしょう。

《仲裁案について》
 扱人が提示した仲裁案は
1案 藤沢川の渇水時は、門前川への掘割用水路に水を流さないこと
2案 七三の割合で、四月一日から八月三十日まで日割り分水、
 三日三晩は藤沢川へ水を流し、一日一晩は掘割用水路へ流すこと
 文中に「用水の仕来り通り」とあるのは、これまでの仕来り通りという意味で、拡張前の状態に戻すということでしょう。だれがみても、平太郎の訴えが真実であるからこその仲裁案です。
 にもかかわらず、あれこれ申し立てて合意しないのは、もちろん村上藩の事前指示があるからです。「動いても黒豆」村上藩の態度は頑なです。頑なすぎて、奇妙です。
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