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平田甲太郎家文書<鮭川〆切 牛屋村との出入> | |||||||||
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① 鮭川〆切取り交し証文 寛政6(1794)年 平田家文書№505 | |||||||||
② 鮭川〆切取払い訴訟 文化12(1815)年 平田家文書№612 | |||||||||
③ 鮭川〆切取払い反論 文化12(1815)年 平田家文書№667 | |||||||||
④ 鮭川〆切取払い訴訟 文政元(1818)年 平田家文書№610 | |||||||||
⑤ 鮭川〆切済口證文 文政元(1818)年 平田家文書№503 | |||||||||
② 鮭川〆切取払い訴訟 文化12(1815)年 平田家文書№612 | |||||||||
③ 鮭川〆切取払い反論 文化12(1815)年 平田家文書№667 | |||||||||
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広報せきかわ2024年12月1日号掲載 | |||||||||
<解説> 1 文化12年の争いの経緯 ②と③は一連の文書で、小見村と湯沢村が牛屋村を水原代官所へ訴えた際のもの。争いの経緯は次のようになる (ア) 小見村と湯沢村が牛屋村を訴えた。 この文書は残っていないが、文書③の中に訴状の内容が書いてある。 (イ) 牛屋村が対応しないので、再度、訴えた・・・文書② (ウ) これに対して、牛屋村が反論した・・・・・・文書③ 2 文書内容の大要 争いの経緯に沿って、各文書の大要を解説すれば次のようになる。(以下、小見村と湯沢村を二村という。) (ア) 二村の訴状の内容・・・文書③の前段 二村は、荒川で鮭漁をして漁業税を納めている村です。 牛屋村の者が荒川を〆切り、持ち網漁をしていて、二村はじめ川上の村々の漁に支障が出ています。度々〆切を撤去させましたが、〆切場所が多く徹底しません。 川上の漁師たちは、そこへ押しかけて〆切を撤去しようと言い出しています。しかし、そんなことをすれば争いになってしまうので、それは止めさせました。 牛屋村へ掛け合ったのですが、かれこれはっきりしない応答で、〆切を撤去しません。 寛政6年、幕府領になった頃の訴訟で、「たとえ枝川(分流)であっても〆切持ち網漁は禁止」と裁定があり、以後行わない旨の済口證文も交わしております(文書①)。牛屋村は、これに違反しており、正当な納税漁業の妨害をしております。 (イ) 二村の再度の訴え・・・文書② 二村の訴えについて、今月20日に牛屋村呼び出しの命令書を発行していただき、それを牛屋村に差し示しました。 しかし、牛屋村は、大規模な〆切をしていて川上に鮭を上らせず、出頭する様子もありません。とても納得できない状態です。 鮭漁は一刻を争う時期に来ています。どうか、川上の村々を救うために、牛屋村を呼び出して、御調べの上、すぐに〆切を撤去するよう言いつけてください。 (ウ) 牛屋村の反論・・・文書③の後段 牛屋村は漁業税として米2.0石、銀140.0匁、銭13.7貫を納税して漁をしています。 当年は、瀬繰りという杭囲み漁を行っていますのに、二村が、何の証拠もないのに不意に難題を言ってきました。 牛屋村の者が、他の村々に差障るような漁をしたり、又は、新たな漁を行ったのであれば、他から文句を言われる前に、当村でそれらを止めさせるのは当然のことです。 しかし、どの漁場でやっているのも以前からの漁法であって、それ以外の勝手な漁など決してやっておりません。 とりわけ当年は、荒川沿いの村々全て水原代官所の支配下になっいるのですが、訴え出る村はありません。特に、これまでやってきた漁について、不都合を訴える者は誰もいません。 それなのに、十数ヵ村も離れた所にある二村だけが訴訟を起こす理由などあるはずもないのです。 結局、訴人の一人小見村庄屋平太郎は、何事によらず争いの訴訟をたくらみ、村々へ難題を掛けているのです。今回だけでないのです。 どうか、今回の訴えは差戻しにしてください。そして、このような不当な争いを仕掛けたことを厳しく注意してください。 3 この争いの顛末 この件の結果については、この2通以外に文書がなく、不明。 訴訟が受理されて、呼び出し状が発行されたのが11月20日、それを受けての文書②も11月だから、多分月末になったろう。文書③の日付は11月になっているが、実際の提出は、12月に入っていただろう。「すぐに作成したのですが、都合があって提出が遅れました」とかなんとか言って。 それから代官所での審査が始まったとすれば、おそらく、決着がつかないまま漁期が過ぎ、黒白つかずに終わったのではないだろうか。 牛屋村の漁師が行っているのは〆切持ち網漁ではなく、杭囲み瀬繰り網漁だという言い分が、このときは通ったのかもしれない。 杭囲み瀬繰り網漁というのはよく分からないが、三面川では現在も居繰り網漁が行われている。それは2艘の舟で網を手繰り絞っていく。だから、瀬繰りは、川を杭で囲んでおいて網を徐々に絞っていく漁なのかもしれない。 川を完全に〆切ってしまうのとは違うという主張だが、杭を所々引き抜けば、どちらの漁法かは判別できない。 4 この後の展開 この3年後、文政元(1818)年に、荒川上流18ヵ村が牛屋村と金屋村を訴えるという争いが起こっていて、その際の和解取決め・済口證文が残っている。(文書④・文書⑤) その文書によると、下流の牛屋村・金屋村で〆切持ち網漁がやられていたことは事実だった。 このことからすれば、河口に近い下流域では、常に〆切漁がこっそりと行われていた疑いがある。何しろ漁獲率の高い漁なのだから。 しかし、いくつもに分流した川幅の広い下流域で、各所に散らばった漁場を見張るのは容易でない。それを見込んで、最盛期に入った頃を見計らって短期決戦で違法漁業をしていたとも考えられる。3年後の訴訟で明らかになるのだが、牛屋村としても、すべての漁場を把握しきれてはいなかったようだ。 今回、文化12年の訴訟は、最盛期に入って大急ぎで訴え出たから、上流域各村々へ相談する暇もなく、とりあえずの二村訴訟になったということだろう。牛屋村からは、そこを突かれて、他の村は何にも言ってないじゃないかと反論された。 それで、3年後は、18ヵ村取りまとめての訴訟となった。多分、今度こそはと、2年間戦略を練っていたのではないだろうか。 5 小見村庄屋平太郎について 牛屋村の反論書の最後で、「平太郎は、何事によらず争いの訴訟をたくらみ、村々へ難題を掛けているのです。今回だけでないのです。このような不当な争いを仕掛けたことを厳重に注意してください」と言われている平太郎こそ、文化3年に「田麦掘割訴訟」事件大騒動を起こした人物。今回だけではないというのは、そのことも入っているのだろう。 文書①に出てくる小見村庄屋甲太郎も、平太郎襲名前の同一人物。このときも、訴えは真実だった。文化3年の訴訟でも、村上藩領の村々から平太郎は散々難じられたが、結局、訴えは真実だった。だから、今回も、うまくかわされてしまったようだが、多分、訴えは真実だったのだ。 |
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② 鮭川〆切取払い訴訟 文化12(1815)年 平田家文書№612 | |||||||||
原文 | |||||||||
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釈文 | |||||||||
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読下し | |||||||||
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意訳 | |||||||||
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