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平田甲太郎家文書<鮭川〆切 牛屋村との出入> 
牛屋村は、荒川河口から2㎞ほどの位置にあり、小見村からは直線距離で11㎞も下流にある。その牛屋村の者が、荒川の下流で〆切持ち網漁を行い、そのため、川上に鮭が上らない。困った川上の村々が代官所に訴え出た。その関係文書が①~⑤の5通。
〆切持ち網漁とは、川を柵で締め切って鮭を一ヶ所に誘導し、大きな持ち網ですくい取る漁法のこと。
 ① 鮭川〆切取り交し証文  寛政6(1794)年   平田家文書№505
 ② 鮭川〆切取払い訴訟   文化12(1815)年 平田家文書№612
 ③ 鮭川〆切取払い反論   文化12(1815)年 平田家文書№667
 ④ 鮭川〆切取払い訴訟   文政元(1818)年 平田家文書№610
 ⑤ 鮭川〆切済口證文     文政元(1818)年 平田家文書№503
⑤ 鮭川〆切済口證文     文政元(1818)年 平田家文書№503
<解説>
④と⑤は、文政元年の訴訟に関わる一体の文書。 
④は、訴状の下書き案文で、その内容の解説は、上記④にある。
⑤は、訴訟の結果の済口證文になる。
④には、訴訟人の名はなかったが、⑤にはそれが書いてある。
訴訟に同意したのは、大嶋、桂、高田、平内新、上野山、滝原、小見、下関、大内渕、片貝、下川口、上関、湯沢、川部、小岩内、貝附、平林、葛籠山の荒川流域18ヶ村で、その内、実際の訴訟人になったのは、高田、小見、湯沢、貝附、葛籠山5ヶ村の村役人たちである。
文書には「高田村外6ヶ村」とあり、計7ヶ村になっているが、末尾の署名は5ヶ村で、おそらく相手2ヶ村を誤って算入したのではないだろうか。

訴えの内容は、④で書いた通り、金屋村と牛屋村が持ち網漁の〆切を取り払わないこと。
民事訴訟の常例で、裁判が始まる前に取扱人が仲裁に入って合意した。その際に作成されたのが、この済口證文である。
取扱人は、赤谷村庄屋三助と中新田村庄屋金右衛門。(中新田は、旧新津の阿賀野川縁にこの地名があるが、そこだろうか。)

仲裁人は、まず、24年前(寛政6年)の小見村と牛屋村の争いで合意した済口證文の内容を確認した。④にあるように、この證文を訴えの根拠として提出したことになる。
残念なことに、この済口證文は文書としては残されていない。しかし、その内容は、24年後に作成されたこの文書⑤「済口證文」の中で知ることができる。
そこに書かれた、寛政6年の済口證文の大要は次の通りである。

(当時)小見村の訴えに対して、牛屋村は次のように反論した。
前々からの漁法をやっているのであって、しかも〆切ったのは本流ではなく枝川(分流)で、川上に支障はないはずだ、と。
しかし、前々から許可された漁法だという証拠文書もなく、枝川と言っても、本来は本流の川で、川上に支障が出るので、けしからぬことだと代官所から言い渡された。
よって、〆切は取り払い、以後、持ち網漁はしないことで取り決めが合意された。

24年前も、3年前も、牛屋村は反論を行い、3年前の反論はどうやら有耶無耶の内に通してしまったようだった。
しかし、今回は、さすがにそれは無理だったのだろう。明確に寛政6年取決めの違反だということで、あっさり非を認め、次のように言い訳している。
寛政6年から年月が経って、小規模の漁師がその取決めを忘れて、〆切持ち網漁を始めてしまった。そのことを、村役人は等閑視してきた。
ということで、今回は、〆切を残らず取り払い、今後はやらないことを約束した。

今回は、2村だけでなく上流域18ヶ村が訴訟に同意している。つまり、上流の村々が挙って牛屋・金屋の非法を訴えているということは、明らかな根拠があったからこその訴えで、反論の余地もなかったのだろう。
この状況から見れば、3年前の牛屋村の反論も、果たしてどうだったのかと疑わしくなるというものである。

なお、末尾の取扱人の印が×で消されている理由は分からない。相手(牛屋・金屋)にはまだ印がないから、この後、そちらへ持って行って押印する手はずだったものだろうか。で、それより先に取扱人が押印するのはおかしいということで、消したのかもしれない。

原文
釈文
読下し 
意訳
 
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