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平田甲太郎家文書<鮭川〆切 牛屋村との出入> | |||||||||
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① 鮭川〆切取り交し証文 寛政6(1794)年 平田家文書№505 | |||||||||
② 鮭川〆切取払い訴訟 文化12(1815)年 平田家文書№612 | |||||||||
③ 鮭川〆切取払い反論 文化12(1815)年 平田家文書№667 | |||||||||
④ 鮭川〆切取払い訴訟 文政元(1818)年 平田家文書№610 | |||||||||
⑤ 鮭川〆切済口證文 文政元(1818)年 平田家文書№503 | |||||||||
⑤ 鮭川〆切済口證文 文政元(1818)年 平田家文書№503 | |||||||||
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<解説> ④と⑤は、文政元年の訴訟に関わる一体の文書。 ④は、訴状の下書き案文で、その内容の解説は、上記④にある。 ⑤は、訴訟の結果の済口證文になる。 ④には、訴訟人の名はなかったが、⑤にはそれが書いてある。 訴訟に同意したのは、大嶋、桂、高田、平内新、上野山、滝原、小見、下関、大内渕、片貝、下川口、上関、湯沢、川部、小岩内、貝附、平林、葛籠山の荒川流域18ヶ村で、その内、実際の訴訟人になったのは、高田、小見、湯沢、貝附、葛籠山5ヶ村の村役人たちである。 文書には「高田村外6ヶ村」とあり、計7ヶ村になっているが、末尾の署名は5ヶ村で、おそらく相手2ヶ村を誤って算入したのではないだろうか。 訴えの内容は、④で書いた通り、金屋村と牛屋村が持ち網漁の〆切を取り払わないこと。 民事訴訟の常例で、裁判が始まる前に取扱人が仲裁に入って合意した。その際に作成されたのが、この済口證文である。 取扱人は、赤谷村庄屋三助と中新田村庄屋金右衛門。(中新田は、旧新津の阿賀野川縁にこの地名があるが、そこだろうか。) 仲裁人は、まず、24年前(寛政6年)の小見村と牛屋村の争いで合意した済口證文の内容を確認した。④にあるように、この證文を訴えの根拠として提出したことになる。 残念なことに、この済口證文は文書としては残されていない。しかし、その内容は、24年後に作成されたこの文書⑤「済口證文」の中で知ることができる。 そこに書かれた、寛政6年の済口證文の大要は次の通りである。 (当時)小見村の訴えに対して、牛屋村は次のように反論した。 前々からの漁法をやっているのであって、しかも〆切ったのは本流ではなく枝川(分流)で、川上に支障はないはずだ、と。 しかし、前々から許可された漁法だという証拠文書もなく、枝川と言っても、本来は本流の川で、川上に支障が出るので、けしからぬことだと代官所から言い渡された。 よって、〆切は取り払い、以後、持ち網漁はしないことで取り決めが合意された。 24年前も、3年前も、牛屋村は反論を行い、3年前の反論はどうやら有耶無耶の内に通してしまったようだった。 しかし、今回は、さすがにそれは無理だったのだろう。明確に寛政6年取決めの違反だということで、あっさり非を認め、次のように言い訳している。 寛政6年から年月が経って、小規模の漁師がその取決めを忘れて、〆切持ち網漁を始めてしまった。そのことを、村役人は等閑視してきた。 ということで、今回は、〆切を残らず取り払い、今後はやらないことを約束した。 今回は、2村だけでなく上流域18ヶ村が訴訟に同意している。つまり、上流の村々が挙って牛屋・金屋の非法を訴えているということは、明らかな根拠があったからこその訴えで、反論の余地もなかったのだろう。 この状況から見れば、3年前の牛屋村の反論も、果たしてどうだったのかと疑わしくなるというものである。 なお、末尾の取扱人の印が×で消されている理由は分からない。相手(牛屋・金屋)にはまだ印がないから、この後、そちらへ持って行って押印する手はずだったものだろうか。で、それより先に取扱人が押印するのはおかしいということで、消したのかもしれない。 |
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原文 | |||||||||
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釈文 | |||||||||
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読下し | |||||||||
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意訳 | |||||||||
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