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平田甲太郎家文書<鮭川〆切 牛屋村との出入> | |||||||||
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① 鮭川〆切取り交し証文 寛政6(1794)年 平田家文書№505 | |||||||||
② 鮭川〆切取払い訴訟 文化12(1815)年 平田家文書№612 | |||||||||
③ 鮭川〆切取払い反論 文化12(1815)年 平田家文書№667 | |||||||||
④ 鮭川〆切取払い訴訟 文政元(1818)年 平田家文書№610 | |||||||||
⑤ 鮭川〆切済口證文 文政元(1818)年 平田家文書№503 | |||||||||
① 鮭川〆切取り交し証文 寛政6(1794)年 平田家文書№505 | |||||||||
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広報せきかわ2024年11月1日号掲載 | |||||||||
<解説> (1) 文書の大意 上関村等14ヶ村が牛屋村を水原代官所に訴えた。訴訟代表は小見村庄屋甲太郎。 訴えの内容は、牛屋村の者が荒川を〆切り持ち網漁をしていて、川上に鮭が上らず、これでは、川上の村々の漁業税納入にも差障るので、〆切を取り払わせてほしい。 審査の結果、たとえ荒川の枝川(分流)であっても、牛屋村の者が〆切漁を行う根拠はないことが明らかになり、この訴えは認められた。 ところが、〆切漁をしているのは極貧の者たちで、〆切を取り払うとたちまち生活に困窮することが分かった。 それで、郷宿(ごうやど)同士が話合い、次のようにすることにした。 今回の〆切の場所はわずかで、川上の鮭漁に大して影響しない。だから、今年一年だけは認めることにする。 ただし、村に帰ってから、代表の甲太郎が現地で立会い、納得の上で鮭漁を認めること。(この時点では、訴訟のため代官所のある水原にいる。) 基本的には、〆切は取り払うことで合意がなり、すでに済口證文も提出したので、甲太郎が了解したことについては、当人の指示に従うこと。 甲太郎が承知しないところに関しては、牛屋村の方ですぐに〆切を取り払うこと。 以上のようにして、川上14ヶ村の漁業に差障りが出ないようにすることを、牛屋村の漁の代表と組頭とで確認したので、郷宿の二人が判を押したこの文書を甲太郎に提出する。 (2) 郷宿(ごうやど)とは 裁判に訴えた時には、裁判の世話をする専門の宿に泊まる。これを公事宿と言うが、地方の場合は郷宿とも言った。原告(訴訟人)と被告(相手)は、別々の宿に泊まり、それぞれの宿の主人が代理人になって話合い、和解案を出し合い合意に導いて、済口證文を作成する。 つまり、裁判の手続きから仲裁合意までの世話をするのが公事宿・郷宿の役割。 それで、文書には、郷宿取扱人と書いてある。 (3) 文書の内容について この文書は下書きである。宛名の甲太郎の甲の字が書き直されてあるし、そもそも、押印がない。多分、事前に甲太郎に見せて、相談した際の文書ではないだろうか。 この文書の正本は残っていない。 また、この訴訟で作成されたはずの済口證文も残っていない。 ただし、済口證文の内容は、これから24年後の文政元年の文書(№503)に書いてあって、ほぼ、「(1)文章の大意」の前段の内容であることが分かる。 つまり、寛政6年のこの訴訟では川上の村々の訴えが認められ、牛屋村の者たちの〆切は取り払うことに決まった。 しかし、それだけでは、困窮する者が出るので、そこに配慮する必要があった。 それで、済口證文に付け加えて、この文書が作成されたということになる。 1年限りの例外を認めようということ。正本は残っていないが、おそらくそれで合意されたのではないだろうか。生活困窮の人たちも救われたことだろう。 これが、取扱人の腕の見せ所。どの出入でも、足して二で割ると言うか、双方に花を持たせるやり方でうまく調整するのが仲裁のコツだった。 (4) 庄屋甲太郎について この文書の前年、寛政5年3月に先代の庄屋11代平太郎が没し、子の甲太郎が後を継いだ。代々の平太郎名を襲名してないので、宛名は甲太郎名になっている。 ただ、文書をよく見ると、平太郎と書いた後で平に甲を書き重ね、さらに隣に甲の字を書き加えている。作成者の郷宿は、小見村庄屋といえば平太郎だろうと思い、宛名を平太郎と書いたが、訴訟人の甲太郎本人が庄屋だと分かり、訂正したのだろう。 平田家文書を見ると、寛政4年の文書も小見村庄屋甲太郎となっていて、先代平太郎の没前から庄屋役を務めていたことが分かる。 その後の文書を見ると、寛政10年5月まで庄屋甲太郎名で、同年8月には平太郎名に変わっている。何かの都合で襲名を5年間延ばしたということになる。 牛屋村との鮭川出入文書5通は、すべてこの12代平太郎の時代のものである。この人が文化3年に田麦掘割訴訟の大騒動をおこした張本人。そのためだろう、③の文書で牛屋村は、「小見の平太郎はしょっちゅう村々へ難癖をかけては訴訟を起こしているので、どうか、懲らしめてください」と、代官所へ訴えている。牛屋村の言い分は果たして真実かどうか。つづきは、文化12年の出入②③の解説で。 |
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原文 | |||||||||
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釈文 | |||||||||
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読下し | |||||||||
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意訳 | |||||||||
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