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平田甲太郎家文書<鮭川〆切 牛屋村との出入> 
牛屋村は、荒川河口から2㎞ほどの位置にあり、小見村からは直線距離で11㎞も下流にある。その牛屋村の者が、荒川の下流で〆切持ち網漁を行い、そのため、川上に鮭が上らない。困った川上の村々が代官所に訴え出た。その関係文書が①~⑤の5通。
〆切持ち網漁とは、川を柵で締め切って鮭を一ヶ所に誘導し、大きな持ち網ですくい取る漁法のこと。
 ① 鮭川〆切取り交し証文  寛政6(1794)年   平田家文書№505
 ② 鮭川〆切取払い訴訟   文化12(1815)年 平田家文書№612
 ③ 鮭川〆切取払い反論   文化12(1815)年 平田家文書№667
 ④ 鮭川〆切取払い訴訟   文政元(1818)年 平田家文書№610
 ⑤ 鮭川〆切済口證文     文政元(1818)年 平田家文書№503
① 鮭川〆切取り交し証文  寛政6(1794)年   平田家文書№505
<解説>
(1) 文書の大意
上関村等14ヶ村が牛屋村を水原代官所に訴えた。訴訟代表は小見村庄屋甲太郎。
訴えの内容は、牛屋村の者が荒川を〆切り持ち網漁をしていて、川上に鮭が上らず、これでは、川上の村々の漁業税納入にも差障るので、〆切を取り払わせてほしい。
審査の結果、たとえ荒川の枝川(分流)であっても、牛屋村の者が〆切漁を行う根拠はないことが明らかになり、この訴えは認められた。
ところが、〆切漁をしているのは極貧の者たちで、〆切を取り払うとたちまち生活に困窮することが分かった。
それで、郷宿(ごうやど)同士が話合い、次のようにすることにした。
今回の〆切の場所はわずかで、川上の鮭漁に大して影響しない。だから、今年一年だけは認めることにする。
ただし、村に帰ってから、代表の甲太郎が立会い、納得の上で鮭漁を認めること。(この時点では、訴訟のため代官所のある水原にいる。)
基本的には、〆切は取り払うことで合意がなり、すでに済口證文も提出したので、甲太郎が了解したことについては、当人の指示に従うこと。
甲太郎が承知しないところに関しては、牛屋村の方ですぐに〆切を取り払うこと。
以上のようにして、川上14ヶ村の漁業に差障りが出ないようにすることを、牛屋村の漁の代表と組頭とで確認したので、郷宿の二人が判を押したこの文書を甲太郎に提出する。

(2) 郷宿(ごうやど)とは
裁判に訴えた時には、裁判の世話をする専門の宿に泊まる。これを公事宿と言うが、地方の場合は郷宿とも言った。原告(訴訟人)と被告(相手)は、別々の宿に泊まり、それぞれの宿の主人が代理人になって話合い、和解案を出し合い合意に導いて、済口證文を作成する。
つまり、裁判の手続きから仲裁合意までの世話をするのが公事宿・郷宿の役割。
それで、文書には、郷宿取扱人と書いてある。

(3) 文書の内容について
この文書は下書きである。宛名の甲太郎の甲の字が書き直されてあるし、そもそも、押印がない。多分、事前に甲太郎に見せて、相談した際の文書ではないだろうか。
この文書の正本は残っていない。
また、この訴訟で作成されたはずの済口證文も残っていない。
ただし、済口證文の内容は、これから24年後の文政元年の文書(№503)に書いてあって、ほぼ、「(1)文章の大意」の前段の内容であることが分かる。
つまり、寛政6年のこの訴訟では川上の村々の訴えが認められ、牛屋村の者たちの〆切は取り払うことに決まった。
しかし、それだけでは、困窮する者が出るので、そこに配慮する必要があった。
それで、済口證文に付け加えて、この文書が作成されたということになる。1年限りの例外を認めようということ。正本は残っていないが、おそらくそれで合意されたのではないだろうか。
これが、取扱人の腕の見せ所で、どの出入でも、足して二で割ると言うか、双方に花を持たせるやり方でうまく調整するのが仲裁のコツだった。
原文
釈文
読下し 
意訳
 
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